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生い立ち(7) [先天性]

前述の喘息の発作時も、隣の部屋の父が 「うるさい!!」と怒鳴りこんでくる為、
恐怖に怯え、呼吸確保の為にする咳も出来ず、 息を殺し、

息をしても 気管が収縮してしまっているので、
思うように空気が肺に入ってこず、
苦しさにひたすら耐えていた覚えがあります。


私の家は、父の機嫌(きげん)で全てが決まる家でした。

機嫌が悪いととても悲惨でした。

母はきちんと料理してくれる人で、
こたつ兼食卓に4人分、並べてくれるのですが、
父の機嫌が悪いとテーブルの端を持ち上げて全て落としてしまうのです。


お味噌汁などの 熱々なおかずが反対側に座っている私と弟に降りそそいでくる為、
いつも父の顔色を見、場の雰囲気を見、父の手が角に行ったら 逃げる!
何度あったかわかりません。

育ち盛りの私たち家族の食事は、一瞬でなくなるのです。

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生い立ち(6) [先天性]

喘息はまだ、「気持ちの病」と言われていた時代、
たとえヒューヒューと呼吸音をさせて肩を上下に息をしていても、 
喘息患者が家族にいない人たちには、理解がされず、
「鼻がつまっているだけでしょ?」とか言われる事も多くありました。


当時 私の通う学校では、冬の授業にマラソンが採用されていました、
校舎の周りを数周するのが、決まりでした。

喘息を経験した方なら理解して頂けると思いますが、
駆けると咳が出たりして発作に繋がりました。

マラソンの後、たとえ その後の、“座り授業”で発作がおちついても、
必ず夜、また発作がぶり返していました。

発作を起こしても夜ですから病院も開いておらず、
咳と喘鳴(ぜいめい)で、横になって寝る事の出来ない私は、

座っていたり、四つん這いになって呼吸が楽になるのを待ちながら朝‥
という事が多くあり、
苦しくて 苦しくて、四つん這いになりながら声を殺して泣いた事もありました。


もう少し、もう少しだけでも否定せず、 私の状況に両親が寄り添ってくれたら‥

足を引きずらないと歩けない私が
カリキュラムの中にいるという事を少しでも気にかけてくれたら‥

でもそんな親ではありませんでした。

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生い立ち(5) [先天性]

日本の教育は、秀でている人も劣っている人も、
同じカリキュラムで進んでいきます。

成長する程に知恵が付き、体力が付き、周囲との能力差は開く一方でした。


私の足は、引きずらなければ歩けないだけでなく、足首も固い為、
かかとを地面につけて、腰を落とすことが出来ません、

脱臼だけが原因なのか、わからないまま、私の足は、自分の思った通りに
動いてはくれませんでした。


当時の小学校では、背丈の順番に並ぶ事が多く、
ピアニカ等の発表も体育の授業も小さい私は1番目でした。

飛び箱でもマット運動でも出来た試しがない私‥、

「〇〇ちゃん(私のあだ名)が一番初めに失敗してくれるから助かる」と
言われた事もあります。


ドッジボールでは一番始めに標的にされ、かけっこでは大幅に離される。 
よくやらされたうさぎ跳びでは、半周も離され、平均台では重心が取れない。 

ハードルは足先を引っ掛けて、思い切り地面に叩きつけられ、
球技では「組みたくない」と言われる。

そして運動会では「〇〇ちゃん 休んで」と言われる‥


周りの人の言葉や態度に傷つき傷つき、心がおきざりになっていたと思います。

「運動会を休んで」と言われても、弟は普通に登校する為、
両親には理解もしてもらえず、」この頃 私は喘息を発症します。

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生い立ち(4) [先天性]

保育園でお友達と何かをする、
例えば、鉄棒やすべり台、小さなタイヤの上を歩く、
皆で順番にするのですが、すべり台の階段が怖くて登れない、
足がガクガクして力が入らない・・等、
皆と同じ事ができないのです。

後ろから矢継ぎ早に「早く~」の声がかかります。

砂場遊びやお絵描き等ではとがめられる事はありませんでした。

そのかわり、工作で苦しみ、運動で苦しみ、
こんな小さな時からレクレーション大会や運動会は苦しみの種でした。


かけっこをしても大幅に離されます、集団は遥か先です。

親子で行う玉入れも、小さな小さな私には全く入りません。

“自分より劣っている”と判断されると、
たとえ幼い子供であっても、心無い態度や言葉を浴びる事となります。


私の両親は『学校は休むべきではない!』という考えの持ち主で、
私がどんな状況にあろうと、休ませてはくれませんでした。

ただ唯一 双子であった為に、一人が熱を出すともう一人も熱を出し、
熱でふぅふぅ言いながらも、家に居られる事が嬉しかった事を覚えています。


そんな保育園時代を数年過ごし、地区の小学校に進学する為、
弟と共に入学の為の手続きに入った頃の事です。

後から母が話してくれたのですが、市の担当者の方から
「娘さんだけ1年遅らせてはいかがでしょうか?」と提案されたそうです。


市の担当者の方からの提案を、両親は辞退しました。

“双子であるのに、学年が変わってしまうのは困る”というのが理由でしたが、
今でも、弟と同じ進学で良かったのか、1年遅らせて少しの成長を待ってからの
入学が良かったのかは今もわかりません。


紆余曲折はありながらも、私と弟は地区の小学校へ入学します。

小学校は6年あり、身体や心、全ての面で成長していきます、
成長に伴い、教育カリキュラムが私の身体と心を蝕んでいく事になります。

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生い立ち(3) [先天性]

私の中に「〇〇(私の名前)は、腕の力が強いのよ」と
母や祖母、親戚に言われた覚えがあります。

幼い頃、自分は腕の力があるんだ・・と誇らしく思っていました。

ある時、赤ちゃんの時のアルバムを開く機会がありました。

そこには、3歳くらいの私が、
歩き始めたばかりの赤ちゃんが使う手押し車(カタカタ)を
押している写真が貼られていました。

この写真を見た時の驚き、自分を含む空間が固まりました。

そして自分の中で全ての点が繋がる、
こんなに大きくなるまで歩く事が出来なかったんだ・・

匍匐前進(ほふくぜんしん)のように腕の力で移動していたのでしょう・・
全く覚えていませんが、
私の腕の力が強い理由が、一枚の写真で証明された瞬間でした。


正直 幼い頃の記憶はあまりありません。

ただ全ての成長の過程で、あっという間に
「標準」を超えていった弟との差はかなりありました。

出産時の股関節脱臼、双子のワンオペ育児の影響による治療の見合わせ・・等、
沢山の要因が重なり、私の足は引きずらなければ歩けなくなってしまいました。


“足を引きずらなければ歩けない”という意味も、幼い私にはわからないまま、
教育のカリキュラムに突入していきました。

家は自営業だったので、私たち双子は市内の保育園に入園する事になります。

子供時代の1年の差、また早生まれや遅生まれ、
数か月の差がどれ程違うか、子育てを経験された方なら理解して頂けると思います。

この時点で身体が極端に小さく、足を含む運動機能に遅れのあった私は、
教育の過程に苦しむ事になります。


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生い立ち(2) [先天性]

全てにおいて、父の協力を得られず、
双子のワンオペが始まります。

大学病院の退院時、母は紹介状をもらい、
私の股関節脱臼の継続治療をお願いされたそうです。


当初 地元の総合病院の整形外科を受診して
治療のあたっていたのですが、

車の運転できない母、二人分の荷物と双子を連れ、
待たされる事、数時間 一人がぐずればもう一人も・・

一人は背中におぶり、一人はベビーカー バスでの通院、
そのうち通院はできなくなりました。


母の状況を考えれば、無理があるのは
想像に難しくありませんが、
結局、脱臼が私の人生に重くのしかかります。

未熟児で生まれた私たちですが、弟には疾患がなく、
あっという間に標準体型となり、
疾患は全て私が背負う形となります。


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生い立ち(1) [先天性]

母は動けなかった為、後から聞いた話ですが、
父と地元の産院の先生のひとりが付き添ってくれたそうです。

今はどうかわかりませんが、当時は自治体が変わると、
救急車を乗り換えしなければならず、本当に大変だったと申しておりました。

半世紀上も前に協力して下さった救急隊の方、
同乗して下さった先生には頭があがりません。


都内の大学病院に到着してからも、担当の先生に
「女の子がダメだったら男の子も諦めてください」と言われたそうです。

自然界では女性の方が生命力が強いそうで、その関係からの言葉でしたが、
数時間前にこの世に生を受けたばかりで、命の宣告を受けてしまった私たち、

その後、股関節が外れているのが見つかったり、右目に外斜視が見つかったり
1450gしかない私たち双子は、3~4か月この大学病院にお世話になる事になります。


3~4か月経過後、標準体重に近づき、
無事退院になった私たち、よく母が申していた事があります。

安定期に入り、ベビーグッズを購入しに都内まで出かけたそうです。

双子がお腹にいますから、早く歩く事が出来なかったそうなのですが、
父はそんな母を気遣う事もなく、遥か先を一人で歩いていて、結局はぐれたそうです。



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自己紹介 [先天性]

私は、味覚障害があり、味や匂いがわからないまま、生きてきました。
他にも先天性疾患、遺伝性難病、突発性疾患、難治性疾患のある
私の完治までの体験談をお話ししたいと思います。


まずは簡単な自己紹介をさせてください。
私は二卵性の男女の双子として自営業の父と、パート勤めの母との間で、
関東地方に生を受けました。


3月に生まれるはずが12月に産気づき1450gで生まれる事になります。
半世紀以上前の話、地元に生命維持のできる病院がなく、
設備の整った東京の大学病院に運ばれる事になります。


今なら近隣に設備の整った所もできましたが、私の生まれた頃は無く、
保育器の中の私と弟は、自治体ごとの救急車に乗り換え乗り換えしながら、
東京の大学病院に向かいました。

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